プロフィール
はじめまして。やなかゆうです。
当ブログにお越しいただき、ありがとうございます。
私のことを少しでも良いので、知ってもらえたらな…と思います。
【名前】矢仲由侑(やなかゆう)
【出身】東京
【職歴】幼稚園教諭、脱毛専門店スタッフ、IT系会社員、保育士、児童相談所一時保護所の児童指導員、自営業
【趣味】読書、カラオケ、アクセサリー作り、音楽鑑賞、映画、絵を描くこと、弓道(最近できてないけど、弐段まで持ってます)
【好きな映画】サウンドオブミュージック(不朽の名作!!)
【保有資格】幼稚園教諭、保育士、社会福祉主事、自動車免許(AT限定)、秘書検定2級、ITパスポート 等
【目標】シングルマザー向けのシェアハウス運営、子どもの居場所運営
私は夫と2人の子どもがいる主婦です。
以前は、児童相談所の一時保護所で児童指導員と、掛け持ちで保育士をしていました。
その前はパート保育士のみで週4~5日で働き、その前は8年ほどIT系の会社で働いていました。
そのもっと前は脱毛専門店のスタッフや幼稚園教諭としても働いていました。
幼稚園教諭 → 脱毛専門店のスタッフ → IT系会社員 → パート保育士 → パート保育士(週1日)&児童相談所の児童指導員(夜勤+日勤で週4日)(会計年度任用職員)→ 現在(自営業)
これまでの職歴を振り返る
ここで、これまでの職歴を振り返ってみます。
お母さんでもチャレンジする姿勢は忘れたくない
保育士として働く前は、職業訓練校に6ヶ月間通い、機械系CADを習っていました。
「全然関係ないじゃん!?」って思いますよね。
実はIT系会社員時代、CADで作った3Dデータを使って、バーチャルで検証を行うアプリケーションの拡販支援や設計製造ソリューション展での顧客対応、タッチ&トライセミナーの講師対応といった経験がありました。なので、心の奥底で「CADを活用するアプリじゃなくて、CADやりたい!」という気持ちがくすぶっていたのです。
CADのスキルを身につければ、在宅の仕事だって探せそうだし、やるなら今だ!!と会社員を辞めてすぐに職業訓練校への入校を決めました。
実際に通えるのは20名。そして、書類審査や面接試験を突破しなければいけません。
対策を万全にして挑むと、見事通過し、訓練校への入校が決まりました。
後からアドバイザーから聞いたのですが、面接試験は1番の成績で通過したとのこと。
また、ほぼ同時期に、将来を見据えて福祉系の通信制大学へ三年次編入しました。
四年制大学への進学率が高まっている現在、短大卒の私にとって、短大卒であることに、少しコンプレックスを感じていました。
また私の卒業した短大は、女子でも四年制大学に進学するのが当たり前となったこの時代のあおりを受け、学生の募集を停止してしまいました。
そんな私が再び将来について考えた時、ちょうど一人目の育児休暇中でした。
今の会社でずっと働いていけるのか、それで良いのかを悶々と考えながらテレビを見ると、目につくのは数々の児童虐待のニュース。
そのニュースは出産を経験し、絶賛育児中の私にショックを与えました。そして涙が止まりませんでした。
そうだ、これだ。
これからの私は、福祉を学んで、虐待児の支援をしよう。
それなら、幼稚園教諭の経験だって、現在進行形の子育ての経験だって生かせる。
でも、幼稚園教諭の資格だけではだめだ。「児童福祉法」にもとづく保育士資格も取ろう。
そこで、保育士試験の参考書を購入し、育児休暇中であることを利用して勉強を開始。
職業訓練校に通う前には保育士資格を取得していました。
その頃の将来ビジョンはこうです。
- 通信制大学で勉強を進めながら、職業訓練校でCADを習得。
- 職業訓練校を修了したら、CADの仕事をしながら通信制大学卒業に向けて頑張る。
- 大学を卒業したら、しばらくはCADの仕事を続ける。在宅で仕事ができるなら、在宅でCADの仕事をする。
- 子どもの手が離れたら福祉の仕事に就く。できれば、児童相談所で児童虐待関連の仕事をする。
- 独立して、子どもの居場所的なものを作る。(その頃にはCADのスキルの何かに生かせるかも?)
そんなこんなで、職業訓練校に通うことになった私ですが、在校中、二人目の妊娠が発覚します。
喜ばしいことですが、生徒に就職してもらうことを第一義とする職業訓練校的には、素直にお祝いできる状況でもない様子。
なぜなら、生徒の就職率を上げることが訓練校側の利益に大きく関わることだから。
普通に考えて、妊娠したらなかなか就職先を見つけることは困難になる。
なので、妊娠が発覚したら、途中で退校することを選択する人は多いという。
だったら、私が実績を作る。
私は何がなんでも内定を勝ち取る。
幸い、職業訓練校のいう就職は、4ヶ月以上の雇用が見込める契約であれば雇用形態や職種の縛りはありません。
その後の就職活動では、CAD関連の職種に絞らずに挑むことに。
在宅でCADの仕事ができるという求人にも応募し、面接を受けましたが、結果は残念でした。(実際に、在宅で仕事をしている社員なんて一人も居ない会社でした。)
そして、CADを仕事にすることは叶いませんでしたが、福祉法人が運営する保育園のパート保育士として働くことが決まったのです。
私は無事に最後まで職業訓練校に通い、修了できました。
職業訓練校とほぼ同時期に通い始めた大学も、留年することなくストレートで卒業できました。
1ヶ月休みを頂いて、教育実習にも参加しました。こうして、学士(人間学)と社会福祉主事の任用資格、社会福祉士の受験資格を得ることができました。
地獄の幼稚園教諭時代
私の社会人の出発地点は幼稚園教諭。この時は、本当に毎日毎日辛かったです。
大きな法人の幼稚園でキレイめな園舎、可愛い子ども達に囲まれて、バラ色の社会人生活スタート!!――のはずが、もろくもその希望は崩れ去ります。
独特な職場環境のもと、心がどんどん疲弊していったのを覚えています。
その職場は先輩に出遅れるとすかさず『あれ替わって来て!』と言われるような体育会系のノリで、休憩用のお茶が入ったコップも上の立場に立つ人順に置かなければ注意されました。
最終的には、個人持ちのバリエーション豊かなコップを、全て誰のコップか覚え、息を吸うかのごとく上から順に各机に置いて行くことが出来るようになりました。
壁面飾りを製作する係になると、職場でやる時間が無いので毎回のように大量の画用紙を持ち帰り、家でどんなに仕事をして自分の時間が削られようと、全てサービスでした。
また、私は壁面飾りを作る他に
*給食カレンダー作り
(残さず食べられたらご褒美シール、残したら半分に切られたシールを貼るカレンダータイプの台紙。12ヶ月異なるデザインを描き下ろし、毎月300枚以上画用紙に印刷する。)
*【毎月】給食を残さず食べられた子どもに贈る給食メダル作り
(これも12ヶ月分デザインを描き下ろし、「今年はこのデザインで作ります。」と総括の先生に見せてOKをもらう。年少・中は紙製のメダルだが、年長はフェルトとリボンを使って作らなければならない!!)
・・・も担当していたので、いつでも何かしらの作りものに追われる生活を送っていました。
あからさまに持ち帰り仕事をしてるアピールはダメという暗黙のルールがあり、材料を持ち帰る時はコッソリが基本です。
幼稚園教諭として働いていた頃、私自身も気が利く人間では無かったので、正直先輩の先生方からは疎まれていました。
そんな状況なので、私の自己肯定感は最底辺まで落ち込んでおり、毎日辛くて仕事に行きたくなかったです。でも、行かなきゃ周りにまた迷惑を掛けることになるし、ただでさえ居づらい空間なのに更に居づらくなってしまうと考えると、結局行かなきゃいけないという・・・逃げ場のない気持ちで毎日過ごしていました。
ただ、同期が5人いたことが救いで、同期同士励まし合いながら、なんとか毎日ギリギリで頑張っていました。
先輩の先生方から疎まれていた私ですが、絵を描くのが得意であったり、手先が器用だったので、お遊戯会の小物作りでは『うちのクラスのも作って!』と声が掛かり、何クラスもの小物作りを引き受けてしまうのでした。
言い方が悪いですが、たぶん良いように使われていたんだと思います。
それでも、その時は頼られることが嬉しかったんですよね。そうやって頼られることで、「私は必要とされている人間なんだ!!」と思い、精神衛生を保つという・・・。
2年目になると、年間行事も一通り経験し、少しだけ慣れていた自分がいました。
『最低でも3年は働かないと』と言われていた時代。なんとかかんとか2年目を過ごしていた私は「ここで無理しちゃダメだな。2年で辞めよう。」と決心するのでした。
脱毛専門店のスタッフ時代
幼稚園を辞めてすぐに、私はネイルサロンと脱毛専門店を運営する小さな会社に就職を決めます。
美容にも興味のあった私は、ネイルアーティストを目指そうと考えました。
ネイルアーティストなら、美容業界にいながら得意としている絵を描くことも活かせると思ったからです。
次なる就職先のその小さな会社は、ネイルサロン、脱毛専門店の他に、ネイルスクールも運営していました。
ネイリスト資格の無い私を、いきなりネイルサロンで働かせることは難しい。
だけど、脱毛専門店のスタッフとして働きながら併設のネイルスクールで勉強し、ゆくゆくはネイルサロンで働けば良いという話に私は納得しました。
そして働き始めると、今度は福利厚生の至らなさにモヤモヤすることに。
そして正社員とは名ばかりの待遇。
有給休暇が3日しかない・・・。
(幼稚園教諭時代は病気や怪我といった理由以外は出勤することが当たり前だったので、“有給休暇”という概念を持ち合わせていませんでした)
ボーナスも無し。
最初はそれで納得していたはずでしたが、私のモチベーションは下がる一方。
そして、急に連絡無く来なくなる正社員が数名。
後になって判明したことは、付き合っている彼の子を妊娠していることが判明し、つわりで気持ちが悪くなってしまったとのこと。でも、何の言葉掛けもなく、そのままフェードアウト。
予約はその社員が来る予定で組んでいたので、本来は三人体制で回さなくていけないところを二人体制でなんとか回すという始末。
せっかく地獄の幼稚園教諭生活から抜け出したものの、こんなところでは落ち着いて働けるわけが無い。
そして、わずか7ヶ月で退職することになりました。
IT系会社員時代
そして次に私が就職した先は、IT系の会社。なぜまた、そんな畑違いな職業と思われるでしょう。
それは脱毛専門店で働いていた時。当然のことながら、お仕事帰りの女性がそのまま脱毛しに来ることも多かった。それで施術中、会社で働いている女性と仕事の話になったりする。
オフィスワークについて、まだ未知だった私は、お客様からいろいろと話を伺う。そんなことをしている内に、「やっぱり、もう少しちゃんとした会社で、手堅くオフィスワークでもした方が良いのかも・・・」という考えに至ったからでした。
そして『これからはIT系』なんて言われていた時代でもあったので、「IT系を狙おう!」となったのです。
運良く、未経験者歓迎のIT系の会社に就職できた私。この会社はアウトソーシング業を営んでおり、ほとんどの社員は他社に常駐して仕事をしていました。
私も早速、他社に常駐することに。
正社員で居ながらにして、他社に常駐して働く。そこでのプロジェクトが終了すると、営業さんに連れられて、今度はまた別の会社に常駐して働く。せっかく仕事に慣れても、プロジェクトが終わって、また次の新しい職場に行くことになると、新しい仕事を覚えなくてはならない。
そういった大変さはありましたが、「今度はどこで、どんな仕事をすることになるんだろう?」というワクワクが勝っていました。
そしてこの会社員時代に、夫と出会い、結婚。出産して育児休暇中に改めて、将来についてふと考えます。
独身時代は、職場が変わることにワクワクしていたけれど。結婚して、出産して、職場復帰しても、またガラッと勤務先が変わるのはつらくない?
しかも、いつまたどこに行くことになるか分からないし。このままこの会社でずっと働くことはできそうだけど、今の仕事って自分のやりたい仕事なの??
今までは、どちらかと言うと「生きていくために」働いていた。でもこれからは「本当にやりたいことを仕事にする」ことってできないだろうか。
そんな考えが脳裏を駆け巡りました。
それでも、育児休暇が明けたころ、会社に復帰しました。常駐先は、家から電車で30分+バスで10分ほどかかる会社でした。
私の本音としては時短で働きたかったのですが、私の前任者がフルタイムで働いており、時短にしても仕事量は変えられないようだったので、私もフルタイムで働くことに。
ところが、フルタイムで働くと、子どもの19時のお迎えに間に合わない。そこで、ファミリーサポートを利用することになりましたが、もちろん無料ではない。
子どもが小さいと保育料も高め、それに加えてファミリーサポートの利用料まで。朝から準備でバタバタして、帰りも急いでサポーターさんの家に行って子どもを引き取り、家に帰ったら食事の準備して、子どもを風呂に入れて、寝かしつけ。またすぐに朝が来て、繰り返し。
子どもは小さいと、本当にすぐに熱を出す。元気と思っていたら、突然保育園から「熱が出た」と呼び出しの電話。会社を休むことになって、常駐先と自分の会社の上司に連絡すると「就業したばかりなのに休むのか」「おばあちゃんに頼めないのか」と言われる。
復帰して、2ヶ月ほど経った時、なんだかとっても働きづらくなったなぁーと思っていたら、自分のポジションが別の部署と統合されることに。統合されることで、私の仕事が他の人に振り分けられ、私が外れることになりました。
こうなると、通常はプロジェクト終了ということで、営業さんから新しい仕事が持ちかけられ、次なる場所に行くことになります。でも、私はもう辞めることしか頭にありませんでした。
着任する前に辞めれば、誰にも迷惑は掛かりません。私以外の人が、そこに入るだけです。
私は今の仕事を辞めて、自分の住んでいる地域で仕事を探すと伝えました。こうして、私の約8年間の会社員生活が終わりました。
ここから、前述の職業訓練校の話につながります。
児童相談所での勤務を経験
2020年~21年の3月まで、児童相談所での支援について学びたくて、児童相談所で児童指導員として働きました。
私は一時保護されている幼児を担当することになりました。
児童相談所に保護される理由は様々です。理由は様々ですが、共通している大きな理由は『子どもが家庭の中で安全に暮らせない』からです。逆に、「安全に暮らせそうだ」と判断されれば、保護された子どもは家に帰ることが出来ます。
心に、言葉では言い表せない傷を抱えた子どもを目の当たりにし、ギュッと胸が締め付けられる思いでした。その子どもの背景に目を向けると、同様に苦しんでいる母親や父親の姿がありました。
やはり、親の苦しみはそのまま、子どもに向けられたり、巻き込まれたりするんだなと思いました。
それと同時に、これまでは子どもの虐待支援にフォーカスしていた私の考えが変わり、子育てをする親向けの支援が大切なのでは?と考えるようになりました。
また、もともと抱いていた子どもの居場所を作りたいという私の夢がより鮮明になりました。
これからの私
いろんな仕事を経験し、「楽しいこともあったな」「人生経験豊かになって良かったな」と思う反面、辛い思いも沢山経験しました。また結婚・出産・子育てというライフイベントが加わると、世間で言われているような社会問題がさっそく降りかかってきて、悔しい思いもしました。
働いている時はいつも心に
- こんなに頑張ってるのに、思うようにお金が貯まらない
- 毎日無理して働いてる自分がいる
- つらい思いして頑張って働かなきゃいけない
- 寝たら自分の時間が無くなってしまうと思うと、ぐっすり寝られない
- いつも都合の良いところだけ、良いように利用されているような気がしてモヤモヤする
・・・という思いを抱えていました。
結婚してからは更に
- 早く起きてすぐにバタバタと自分や子どもの支度に追われる毎日がつらい
- もっとスキルアップしたいし、子どもとも一緒に遊びたいのに自由な時間がない
- 朝出掛ける時に子どもがモタモタしているとイライラし、そんな自分が嫌で仕方がない
・・・という思いが加わりました。
こういった辛さを抱えているのは、きっと私だけではないはずです。
ここまで、いろいろと経験し、正直ちょっと疲れてしまった自分もいます。なので、これからは自分自身も幸せにしつつ、周りも幸せにしていけるように頑張ろうと思います。
まずは身近な社会貢献として、有益な情報、私が体験した話や知り得た知識をブログで公開し、それが誰かの役に立って貰えれば幸いです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。